review of Watanabe Lab

WLAB WEEKLY BOOK REVIEW

20110411 

越澤 明、『復興計画 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで』、中公新書、2005年
今日で東日本大震災から1ヶ月。私自身、これまでの価値観が大きく変わった1ヶ月であった。例えば防災都市、備蓄、節電やエコロジー、持続的社会など、どこか抽象的、他人事であった問題が具体的、リアルなものとなった。こんなとき、どのような姿勢であるべきか。少なくとも歴史に関わるものであれば、空間的・時間的に長いスパンでものが考えられると思う。朝日新聞4月7日オピニオン、インタビュー「歴史のいま」では、近代イギリス史、世界システム論の歴史家、川北稔大阪大学名誉教授が、歴史の教訓を含めてその姿勢を指摘している。歴史上においても未曾有有の災害であり、18世紀半ばに発生し、人口の約3分の1が亡くなったとされるポルトガルの首都リスボンを襲った大地震と津波を、取り上げ、すでに嘗ての栄光を失いかけていたポルトガルと、現在中国に追い越された日本とを比較した。ポルトガルと同様、日本はこの震災で没落するのか。政治的・経済的なことだけでなく、ポルトガルの地震は当時の価値観(建築などがもつ永遠性)を壊したことでも知られている。いずれにせよ、どのように復興すべきなのか、答えは簡単ではないが、歴史にそのヒントは隠されていよう。その意味で、越澤明、『復興計画』を読むと、日本人の不屈の精神に基づいた勤勉さと優秀さが理解でき、このまま没落するはずがないというある意味自信が持てる本でもある。地震、大火、爆撃(火災)、津波、すべてを歴史上これだけ受けた国は日本だけである。そのたびに復興計画、都市改造つまりはRe-Constructionが幕末から、西洋の事例を学びながら、その学んだ技術によって自ら行なわれたのである。いずれも政府主導であることは違いないのだろうが、阪神・淡路大震災においてようやく民意主導、住民参加型の復興が実現しており、ボランティアによる支援、インターネット的情報化社会での対応、さらには原発による環境破壊の抑止、省エネルギー化への推進など、新たな取り組みが今回の復興の歴史には書き込まれることになるだろう。(KW)

20110418

齋藤孝「読書力」岩波新書、2002

「昨今の大学生は読書をしない」とは、読書好きからしたらひどく反発を覚えるセリフである。しかし読書嫌いが本をどこまで敬遠するかを知らないわけでもない。だから、読書嫌いには、声を大にして主張したい。恐れることなかれ!週刊マンガから始めよう。ダメなら絵本。それでもダメならウォーリーをさがせ!これらは、諸教授陣に見られる嘆き落胆を込めた例の常套句と、「大学生の読書=勉強」に矛盾しない。まずは、本と呼ばれる紙の集合体に対する拒否反応をなくすことを目指せばいいのだ…と思う(自論)。
そうして読書量を増やして、増やして…「10万冊の本を読んだらきっとビジョンが変わると思うな」「5万冊の本を読んだという紫さんには、どんなビジョンが見えているのだろうか」、先日出版されたばかりのラノベ『小説家の作り方』*1のワンシーンだ。芥川龍之介は、生涯の読書量について計算したところ1万冊を超えないことに落胆したそうだ*2。
哲学者ショウペンハウエル*3は、その毒舌で「悪書は精神の毒薬であり、精神に破滅をもたらす。良書を読むための条件は悪書を読まぬことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである」と述べている。
齋藤孝『読書力』は、これら読書量による自己の改革や、選書法を齋藤流に砕き、読書の意味と効果を明確化した上で、実践の為のブックリスト「文庫百選」なるものを添えて説いている。読書をする理由を「自己形成、自分を鍛える、コミュニケーションの基礎」というキーワードに置き、読書力があることの目安として1.文庫100冊、新書50冊を読んでいること、2.読書が苦にならず日常で何気なくできること 、3.読んだ本の要約を言えることという具体的な評価基準を挙げている。読書は一見孤独な作業ではあるが、本1冊はもちろん、本棚に向き合うことで広がる壮大なネットワークの可能性を示唆している。本好きとして著者の示す読書術に反発を覚える場面もあるため、すでに自分のスタイルが確立している場合はおすすめできないが、読書嫌いが導入部分で”本を読むための本”として手に取るには易しい著作である。(CA)

*1野崎まど「小説家の作り方」メディアワークス文庫、2011、5万冊を読んだ美女・紫は「この世で一番面白い小説」のアイデアを思いついてしまったとして駆け出し作家・物実に指南を願い出る話。
*2仮に読書年を15歳から70歳までの55年として1日5時間を読書時間に当てると約10万時間ある。本1冊を3時間で読み終わると設定すると多くても3万3000冊。6時間かけると1万6500冊となる。(参照:http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Vega/8361/zasugaku/nansatu.html)
*3ショウペンハウエル「読書について」岩波文庫、1960

20110425

加藤幹郎「映画館と観客の文化史」中公新書、2006

本書では「何処で映画を見るのか」を映画誕生から現代の映画鑑賞スタイルが出来るまで紹介し、映画の見方がきわめて多様なものだったことを明らかにしている。
郊外のシネマコンプレックスでブロックバスター映画を見るという現代の映画鑑賞スタイルができるまで、様々な方式で映画鑑賞が行われており非常に驚いた。映画初期はキネトスコープという覗き込み式の装置を使い1分程の映像を一人で楽しんでいた。その他にも連鎖劇という映画と演劇を融合させたものやドライヴ・イン・シアターなど映画の見方は様々である。ドライヴ・イン・シアターに関しては公共空間の中の史的空間と表現され、観客は自由に会話や食事を楽しみながら映画を楽しんでいた。
映画館で静かに座って映画を見ることが求められるようになったのは110年ほどの映画史においてもつい最近のことである。
1980年代に登場したVCR(ヴィデオ・カセット・レコーダー)の普及により「映画を見る」事は、それまで映画館で「映画を見る」ことから大きく意味を変えた。映画館で映画を見ることとDVDで映画を見ること、これらは明らかに違う体験をしている。映画を誰と見たのか、何処で見たのか、字幕なのか吹き替えなのか、それぞれ違ってくる。しかし、私たちは「映画を見た」という一つの言葉で表現している。映画を見るということが、それを可能にする媒体と場所の質的差異にも関わらず、本質的に変わらない一定不変のものであるかのような思い込みを反省させるきっかけとなる本である。
私たちはなぜ映画館に足を運ぶのか。DVDをレンタルすれば映画館よりも安く、気になるシーンを繰り返し見ることができる。それなのに映画館に行ってしまう。このような疑問に明快に答えてくれる。映画が好きな方にはおすすめの一冊である。(RK)

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